シチュエーション
「ダンジョン・バスターズ第一巻」出版記念で
コメント
独身男は気楽である。夕食はなにを食べても許されるし、飲み屋で深酒しても誰からも文句は言われない。結婚し、子供が生まれれば人生の幸福は倍になるという。だが何かを得るということは、何かを失うということだ。結婚で失うものは「食べたいものを食べる」という自由だろう。私にはそれが我慢できない。だから生涯、独身でいるつもりだ。
さて、こんなことをつらつらと述べたのは、これから行く店が、少々特殊だからだ。単なるラーメン屋なのだが、食後は必ずニンニク臭くなる。家庭持ちのサラリーマンであれば、間違いなく奥さんから「ニンニク臭い!」と睨まれるだろう。独身だからこそ許される、ささやかな特権だ。
江戸川区一之江駅を下りて、その店に向かう。コロナ禍の影響で、3ヶ月近くも「実質休業」をしていた。持ち帰りサービスはあったようだが、わざわざ家まで持ち帰って食べようとは思わない。この店で食べるからこそ「あの味」になるのだ。
6月下旬にようやく営業再開となった。「ダンジョン・バスターズ第一巻」の出版を記念して、3ヶ月ぶりに食べに行く。大行列が予想されるため、開店前に到着する。すでに10人以上が並んでいる。店の席数は14席だったはずだ。最初のロットで私も入れるだろう。
券売機で「豚二枚入り」の青色カードを買う。そして生卵を追加する。席について待つこと暫し。職人気質の店主が手早く仕上げていく姿を眺めていると、3ヶ月ぶりの「あの味」が記憶から蘇り、口内に唾液が広がってくる。
「青い券の方、ニンニク入れますか?」
「全部で」
系列店では「マシマシ」というコールもあるが、この店にはない。麺の量も野菜の量も、系列店中では少ないほうだ。だからこそ、女性客の姿もチラホラ見える。たとえ女性であっても、「麺少なめ」と注文せずとも食べ切れてしまう量だ。40歳を過ぎた私にとっても適量だ。
着丼すると、最初に一味唐辛子を振りかける。邪道という人もいるかもしれないが、食べ方は人それぞれということで許容してもらいたい。クタクタの野菜、程よいアブラ、ゴロンと2つ入った塊肉。そしてワシワシの麺。
スープを一口啜ると、戻ってきたという実感が湧いてくる。野菜と麺を一緒に啜り、喰む。微乳化のスープには驚くほどに旨味が溶け込んでおり、それが太麺に絡んで口内に広がる。
「旨い」
思わず漏らしてしまう。塩分と脂肪分と糖質の塊だが、これが圧倒的な常習性を生み出し、食べた者を虜にしていく。二口目は溶き卵につけて食べる。誰が考えたかは知らないが、この組み合わせを思いついた奴は天才だ。そんなことを思いながら、自然と箸が動き続ける。程よく脂身が入った豚肉を噛むと、中からスープと肉汁が溢れ出てくる。「神豚」だ。だがこの店ではコレが当たり前。量が少ない分、系列店中トップレベルの「旨味」を安定して出してくれる。量を求めない私にとっては、まさに理想的な店だ。
完食する。スープまですべて飲み干した。水を飲み、口元を拭う。空になった丼をカウンターに置いてテーブルを拭く。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございましたー!」
店主の笑顔の返事を背に店を出る。まだ18時前だ。ちょうど夕暮れ時、少し遠回りをして帰ろうと思った。本来なら明和橋から帰るのだが、ダンジョン・バスターズの主人公「江副和彦」と同じように、涼風橋を渡ることにする。
(やはりラーメン業界とラノベ作家業界は似ている……)
本業が経営コンサルタントである私は経営者と話す際に、しばしば「ラーメン業界」をたとえ話にする。日本国内にラーメン屋は万とあるが、10年以上繁盛し続けているラーメン屋は多くない。ゴーイング・コンサーン(企業の永続的発展)を考える際に、そうした長く続く繁盛店と、そうではない店との違いを分析することは有意義だ。
そしてそれは、ラノベ作家業界にもいえる。毎年多くのラノベ作家がデビューするが、シリーズ化し、続巻が出続けるような作家は何人いるだろうか。複数作品を出版し、職業作家として自立している人は多くないだろう。大抵は私のような兼業作家であり、そして「次巻がでるかどうか」でやきもきしているはずだ。
(作家として生き残るにはどうしたら良いか……)
このヒントが、ラーメン業界に隠されている。長く続くラーメン屋には、かならず「固定客」が存在している。つまり「リピーター」だ。これを数多く確保したラーメン屋が、長続きする。
では多くの固定客を持つラーメン屋の特徴はなんだろうか。先程食べたラーメンにその回答がある。つまり「常習性」だ。営業再開を心待ちにする熱狂的なファンがいる一方で、そんなに美味いか? と首を傾げる者もいる。ラーメン屋で常習性を出そうとしたら、万人が85点をつけるような「美味いラーメン」ではダメなのだ。50%が40点をつけるかわりに、50%が120点をつけるような「旨いラーメン」でなければならない。
この考え方をラノベ作家に適用したらどうなるだろうか。職業作家の多くは固定客、つまり「ファン」を持っている。彼らは作品ではなく、作家そのもののファンといえる。「彼が書いた新作だから」という理由で読むのだ。
文体が生み出す作品の雰囲気、そして読後感。
これが作家業界における「常習性」に繋がるのではないだろうか。これはマンガ業界でも同じだろう。無論、練り込まれた設定や話の展開などもあるが、それは決定的な要素にはならない。出版するほどの作家なら、多かれ少なかれ工夫し、努力しているからだ。
「ダンジョン・バスターズとともに、篠崎冬馬という作家のファンを持ちたいものだな」
気がついたら、涼風橋を歩いていた。第一巻のラストシーンと同じ場所に立つ。初夏の夕暮れ、徐々に立ち上がる碧い空を見上げながら、小さく呟いた。